トニオ・クレーゲル:W章−V


 一方、「芸術家」もトニオ以外に存在していた。
マクダレーナ・フェルメーレンは、他の同級生とは違い、トニオに共感するものを持っていた。
トニオが詩を作るのを知っていて、それを見せてくれと頼んだり、
また時にはトニオに向かって熱い視線を投げかけていることもしばしばあった。
しかし、「芸術家」同士ながら、決して二人は分かりあうことはなかった。
トニオの方が彼女を拒んでいたからである。
せっかくの唯一の良き理解者の存在を、トニオはいつも無視していたのであった。

   また遠くの方から顔をうつむけたままトニオに目を注いでいることも稀ではなかった。
   しかし、トニオにとってそんなことはどうでもよかった。(26)

 しかし、トニオがとったこの態度はそもそも当然のことであった。
なぜなら、「芸術家」とは「俗人」を憧れ愛する者だからである。
だから、トニオがマクダレーナを受け入れないことは、定義に則ったいわば正しい行為であると言える。
この場合、定義から逸れているのは、「芸術家」を愛しているマクダレーナの方である。
「芸術家」を愛する「芸術家」とは、何者だろうか。ところが、その愛する理由は述べられていない。

 「芸術家」にもやはり差異が存在していることは、ここから見えてくる。
そして、同じく「芸術家」にも概念の一定性は見られないということが言えるのである。

   いつもよく転ぶマクダレーナ・フェルメーレンと話をする機会をえたりすると、
   彼女は自分を理解してくれて、一緒に笑い、真面目になってもくれたのに、
   金髪のインゲは、彼と並んで座っているときも、
   彼の言葉は彼女に通ずる由もなかったから、
   彼からは遠くうとましく無縁に見え、
   それが彼の気持ちを傷つけたこともまれではなかった。(31)

 言葉が通じるマクダレーナには逆に理解を示さないで、言葉の通じないインゲにこそ興味を示す。
これが、「芸術家」本来の姿である。

 同じく「芸術家」と分類されているマクダレーナと自身との差については言及しないけれど、
成人したトニオはもう一人の「芸術家」、アーダルベルトとの差については述べている。

   「……ええと、なんの話をしていましたっけ、そうそう、
   小説家のアーダルベルト、たしかにあいつは自信家でしっかり者だ。
   『春は最も醜悪なる季節なり』、こう言って、カフェへ行っちまいました。
   欲するところはこれを知らざるべからず、そうじゃありませんか。
   よござんすか、私だって春はいけない。
   春が呼び起す思い出や感情のやさしい平凡さにかかっては私だって混乱してしまいます。
   ところが、そうだからといって私には春を非難したり、さげすんだりする勇気がないのです。
   つまりこうです、私は春に恥じる、春の純真な自然さ、
   春の圧倒的な若々しさに赤面するというわけなんですよ。
   アーダルベルトはこの点では無縁の衆生だ、さてこいつは羨んでしかるべきか、
   軽蔑してしかるべきか、そこのところはわかりかねるんです。……」(40)

   「ほかでもない、私は時おり自分の芸術家としての生活を
   春にたいして多少は恥じることができるからなのです。」(42)

 「純真な自然さ」に象徴される「春」、それはハンスやインゲらの無邪気で快活、
健全な「俗人」をそのまま意味し、つまり彼らを非難することはおろか、
彼らに対して自分を恥じているのだと述べている。いや、自分には恥じることが出来るのだと。
トニオに言わせれば、ここが非常に重要な点である。一方、アーダルベルトは「春」を非難している。

 恥じることが出来るか否か、トニオはここに重きを置いて、
この差が自分とアーダルベルトの差であると言っている。
ここはもはや、トニオは自分と自分以外の「芸術家」との差であると言ったに等しい。

 そうして、「無邪気で素朴な生きいきとしたもの、
少しばかりの友愛と献身と親愛と人間的な幸福なんかへの憧れに
縁のないような人間はなかなかもってまだ芸術家だなんぞとはい言えない。」(51)と述べて、
さらにアーダルベルト、そして他の「芸術家」との差を強調している。

 「無邪気で素朴ないきいきとしたもの」、「春」に対する憧れを持たない者は芸術家ではない。
アーダルベルトは、それらに憧れを持たないどころか、非難を浴びせるような人間である。
だとすれば、アーダルベルトは芸術家ではないということになりはしないか。

 そして、V章で取り上げた詩を書く銀行員だが、
彼の場合はいったいどのような「芸術家」であるというのだろうか。
トニオに好意を寄せる少女、「春」を非難する小説家とは異なり、
彼だけはトニオに認められている。この差は何であろうか。

 それぞれの「芸術家」には、「芸術家」としての陰影が色濃く出ている。
マクダレーナ、アーダルベルト、銀行員、そしてトニオ、
これらは「芸術家」という同一のカテゴリーの中に存在する、異種の「芸術家」たちである。

 また、ここで再び「俗人」について取り上げるが、
「春」の持つ意味はハンス、インゲだけに特定されていて、
まさかトニオがイムメンタールに対して恥じているとは想像もできない。
むしろ、軽蔑を浴びせるほどであったから、自分の方が彼と較べて、
ましなものであると考えていたに違いない。

 そうして、旅に出てから出会う誤認逮捕をしようとした警察官や、
船上での詩人気取りの調子のいい商人ら「俗人」も、
ハンスやインゲのような愛を受けていたとは到底考えることは出来ない。平等な扱いを受けていないのだ。
彼らも、イムメンタールに対する感情に近いような気持ちを抱かれていた「俗人」だったのではないだろうか。