トニオ・クレーゲル:W章−T


 これまでこの論文では、「芸術家」と「俗人」の対立について、そしてその二種類の人間たちを見てきた。
作品では、「芸術家」と「俗人」はそれなりに定義づけされて、
それに則り登場人物が属すべきそれぞれの種類へ配置された形になっている。

 しかし私は、「芸術家」と「俗人」への人物配置の整合性が保たれていないような気がしてならない。
しかもそれは、そもそも保てないのが当然であるように思える。
なぜかというと、作者がそれを整合的に書こうという気がないのではないかと思われるからである。
そこで私は、作品の「芸術家」、「俗人」について、もう少し詳しく探ってみることにした。
その結果、『トニオ・クレーゲル』の中には、「芸術家」と「俗人」において
定義と矛盾する個所が存在しているのではないかと疑うようになっていったのである。

 まず私は、作品中で彼らが取り上げられている個所に出くわした時、
彼らが一体どのような「芸術家」であり、またどのような「俗人」であるのだろうか
という点に注意を払って見てみることにした。
なぜならば、人物によって「芸術家」、あるいは「俗人」として持つ性格が、実は異なっているからである。
つまり、作品の中で彼らは同じく「俗人」と呼ばれていても、全く同じような内容の「俗人」ではない。
「芸術家」の場合にも同様である。

 このことは、「芸術家」と「俗人」、それら二つの概念が
定義どおりにきちんと定まっていないということを意味している。
しかし問題なのは、『トニオ・クレーゲル』では、ある時は概念が一つに定まることによって、
「芸術家」あるいは「俗人」は、それぞれが同じ性格を帯びて、同一の「芸術家」あるいは「俗人」になるが、
ある時は概念が定まっていないため、彼らはそれぞれが少し異なっていて、
種類の違う独立したそれになってしまっていることである。

 さらに、ある一部の登場人物以外は、
その「芸術家」あるいは「俗人」としての性格づけが詳細にされてはいない。
そして、それによってひき起こる最大の問題は、
一部の者と残りの者たちとの差異が明瞭にならないことである。
しかも、作品にはその差が大きな意味合いを持っているにもかかわらず。

 しかし、一部のはっきりとした者の概念を手がかりに、物語を読み取っていくことは可能なはずだ。
W章では、これまで本論文で取り上げてきた人物たち、
また作品に登場する他の「芸術家」、「俗人」について見ていきたい。