トニオ・クレーゲル:U章−V


 しかし、次にトニオは俗人を非難するが、これは彼が俗人を愛するがゆえの行為であった。

   「いやはや、少尉ですよ、俗世の紳士ですよ。
   そんなことをする必要はなかろうじゃありませんか。」(53)

 かつて自身が出席したことのある良家の集まりの席で、
突如自作の詩の朗読をやってのけた一人の少尉を呆れかえってこう表現する。

   「自分の生命を代償にすることなく、
   芸術の月桂樹からはただの一葉も摘み取ってはならないのですからね。」(53-54)

 人生を生き、心臓の生きている俗人が、気安く芸術にちょっかいを出している様を、トニオは戒めている。
その昔、ハンスやインゲに与えた危惧がやはり、この少尉の場合にも表れている。

 ところが、同じようなケースであるが、知り合いのある銀行家の行為に関しては、彼はそれを認めている。
その男は小説を書くのだが、トニオはそれをその男の天分と認めている。
彼が、世間でも名の通った実務家であるにもかかわらず。
理由はたった一つ、彼もまた心臓の死んでいる人間であるからであった。
また、彼は重禁固刑を食らった経歴を持っていた。

   「だから大胆に言ってみればこうじゃありますまいか、
   詩人になるためには何か監獄みたいなものの事情に通じている必要がある。」(45)

 「監獄」の中にいるような経験、ひとりぼっちの牢の中に閉じ込められて、
自分と外の世界とを断絶されてしまったような人生を送ったことのある者のみに、
詩人になる権利が与えられている、とトニオは述べているようだ。
「監獄」を孤独な世界、俗人の世界から追放された者が行き着く場所という意味で用いている。

 トニオは、「監獄」の中にいる者だけが「芸術家」であると述べている。

   「そうですよ、やっぱり私は私の同業者、
   あの前科者の銀行家のほうに加勢しますね。」(54)
 

 俗人を非難すると同時に、俗人に憧れる。芸術家を詐欺師呼ばわりしながら、芸術家の肩を持つ。

 リザヴェータは、トニオの持つこの矛盾を見事に見破った。そして、当のえた形容で彼をこう呼んだ。

   「あなたはね、トニオ・クレーゲルさん、
   道を踏み迷った俗人です――迷える俗人なんです」(54)

 ここでの対立は、トニオの中で対立する二つの要素を意識することから始まった。
母のことを愛しながら、一方では父の気持ちを理解し、むしろその母を否定する。
「俗人」を愛しながら、非難もする。「芸術家」にも同じ。
相反する二つの要素に肯定も否定も感じることで、対立は強みを帯びている。
リザヴェータに言われた「迷える俗人」は、「迷える芸術家」であるとも言い換えることができる。

 トニオの内部での対立が錯綜して、それが、
そのまま「芸術家」、「俗人」に対する彼の対応につながっている。
「俗人」への対立意識は存在するが、同時に、
俗人への愛情がそれを中和させる働きをしているということが言える。
一方、「芸術家」とは、詐欺師であり、「監獄」のなかにいる者であるということから、
芸術家たることに対する罪の意識から解放されることはなく、「俗人」に対する後ろめたさ、
疚しさのような認識を常に抱えている。

 両者の対立において、トニオ・クレーゲルはどちらに優劣の判別をつけ、
決着を着けようとしているのであろうか。