トニオ・クレーゲル:T章−U


 十六歳になったトニオは、今度は異性に対して激しい恋心を抱くようになる。
快活なブロンド髪の少女インゲボルク・ホルムである。
彼女もまたハンスと同じ世界に住む、輝かしい生命の象徴のような存在で、
明るく陽気で平凡な人間であった。
そして、トニオの不器用な愛情表現を笑いものにし、彼を傷付けることもあった。

 愛の対象が変わっただけで、すべては同じ愛の展開が繰り返されるだけであった。

   彼は、トニオは、インゲ・ホルムを、あの金髪の陽気なインゲを、
   きっと詩なんぞ作るというので彼を軽蔑しているにちがいない少女を愛していたのである。
   ……トニオは彼女を見つめる、幸福と嘲りとをたたえた切れ長の青い目を見つめる。
   そうすると嫉妬をまじえた憧れが、彼女からは仲間はずれにされたまま
   永久に他人でいなければならぬという、鋭い苦痛が胸もとにこみ上げてきて
   彼をさいなむのであった。……(26)

 トニオの恋の期待は裏切られ、彼は自分が彼女らから隔離された別世界に住むような孤独を感じる。

 「彼の言葉は彼女に通ずる由もなかった」(31)とトニオは認識する。
言葉の通じない異質な世界だったのだ。
そして、ハンスの時同様に、自分と同じようなことをしてはいけない、自分のようになってはいけない、
つまり自分と同じ世界に来てはいけない、という危惧を彼女に与える形でその愛は成り立っていた。

   おまえの長く切れた青い陽気な目、金髪のインゲよ。
   おまえのように美しく朗らかにしているには、間違っても『湖畔』を読んだり、
   また自分もそういうものを書いてみようなどと思ったりしてはならないのだ。
   それは悲しいことなのだから。……(29)

 しかし、それでも、インゲとは没交渉に終わっていてもトニオはやはり幸福だった。

   いや、なるほど彼は、孤独に、除け者にされて、希望もなく日覆いの下りた窓の前に立って、
   傷心のあまり外を見ているようなふりをしていたが、それでも彼は幸福だった。
   なぜならあの当時、彼の心臓は生きていたからである。
   暖かく悲しく、自分の心臓はおまえのために、
   インゲボルク・ホルムよ、おまえのために鼓動していたのだ。(30)

 そのような孤独の中にあって、トニオは悩み考え抜いた果てに、
自分の行くべき道が誠実に生きることの上に存在することを悟る。
だから、何よりも自身が誠実であることを願った。
彼にとっての誠実とは、自分とは正反対のインゲを愛し続けることを意味していた。
決して成就することのない、一方通行の片想いのこの愛をトニオは夢想に耽って密かに育んでいった。

   誠実、とトニオ・クレーゲルは思った。
   自分は誠実でありたい、そして命のあるかぎりおまえを、
   インゲボルクよ、おまえを愛そうと思う。
   彼はそれほど純真だった。(31)

 しかし、詩作をはじめ、自身の芸術活動には変わらず没頭を続けた。
その芸術的感覚はさらにとぎ澄まされていき、トニオは、だんだんと芸術家のたまごとして成長していった。
その成長に比例して、トニオは少年の日の愛や恋の経験、
つまり己に誓ったインゲへの誠実な想いを忘れてしまうようになるのだった。

 そうして、自分の中に、ある大きな力を感じ始めるようになった。
そして、この時湧き起こってきた力が、彼を突き動かす大きな原動力となっていったのであった。

   月日が流れて、トニオ・クレーゲルは自分なりに世の中で注目すべき
   たくさんの仕事を仕遂げようという意欲と力とを感じ出した。
   そのために、もう昔ほど絶対的に、あの陽気なインゲのためになら
   命も惜しくないとは思わなくなってきた。(31)

 頭でっかちの芸術家のたまごは、確実に一人の芸術家として成長していくことになった。
自分の進むべき道を、快活な少女への愛の中ではなく、芸術の中に見いだしていく。

 しかし、誠実な愛が自分を幸福にしてくれること、心臓を生きいきとさせてくれることを知っていて、
そうあることを願うトニオの心は葛藤で揺れていた。
だが、やがて自分なりに生きて芸術の道で仕事をしていくことを決意したのだった。

    そして彼は、自分の愛情の清純で貞潔な炎が燃えている犠牲壇のまわりを
   用心深くめぐり歩いて、その前にひざまずき、誠実であろうと思ったから、
   あらゆる手だてを尽してその炎を煽ぎ立てて守った。
   それなのにしばらくすると、炎はいつの間にか人しれず消えていたのである。
    しかしトニオ・クレーゲルはなおしばらくは冷えきった祭壇の前に佇んで、
   誠実というものが、この地上では不可能であることを見て、驚きと失望とを味わっていたが、
   やがて肩をすくめて、それから自分の道を歩いて行った。(31-32)

 トニオが「芸術家」になるように生まれついていることは、
少年時代の彼の描写の中に見てとることができる。
ハンスやインゲら「俗人」との距離や隔たりを感じ、そこから生じる認識によってトニオの中で、
「芸術家と俗人」の対立が確立されている。

 しかし、この対立は対立と呼べる程の様相は呈しておらず、
認識自身が物語るように、「俗人」に対して敗北的である。
「芸術家」の愛が、「俗人」には受け入れられないものとして表されているからだ。
そして、トニオはこの対立を覚悟しているのであった。